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酔っ払い「コウゲツ」 VS 謎の論客「とある管理人」
ブログ「名言・格言・ことわざ ★ トゥインクル」に掲載されたある記事(「
乙武洋匡ブログ炎上。 命の重みが違う?」及び「
命の重さ 2 皇室典範と憲法の矛盾」のコメント欄で行われた、同ブログ管理人である私(コウゲツ)と、訪問者「とある管理人」氏とのやり取りをここに再掲する。
議論のテーマは「道徳的規範はどうあるべきか」。発端は、悠仁親王ご誕生に対する世間やマスコミの反応を批判した乙武洋匡氏についての私の記事である。
興味のある方はぜひ最後までお読みいただきたい。
コウゲツ:
「五体不満足」の著書で知られる乙武洋匡氏のブログが炎上。
このコメント欄にこんなの見つけた。
☆☆☆
皇室の方々の命の重さは一般国民と同等ではないのです。そこのところをもっと理解されたほうがいいと思います。
☆☆☆
これは乙武氏の「男であろうが、女であろうが、皇室であろうが、民間人であろうが、命の重さは等しく、尊ばれるもの。そう思っていた僕には、内親王がご誕生した時よりもはるかに舞い上がった今回の慶事ムードに違和感を覚えてしまったのです。」という文章に反応したものでしょう。 このコメントについては、後のほうで意見を述べたいと思います。
さて、私はというと、乙武氏の考えに概ね賛成です。
というか、実際こういう考えの人はかなりたくさんいると思われます。
テレビには「手をたたいて喜んでしまった」みたいな人の声ばかりが紹介されており、芸能人や政治家のコメントも「心から喜ばしく思う」とかいうのばっかりですが、あんまり興味がないという人やファシズム的な違和感を感じるという人も相当数いるはずです。
裸の王様の物語に近いところがありますね。 マイクを向けられても、批判あるいは暴力を恐れて無難なコメントしかできない。
乙武氏のようにブログに意見を書こうものなら、たちまち炎上してしまう。
WEB2.0 のご時勢ですから、批判が一気に集中してしまうのもやむを得ないこととは思いますが、匿名性をいいことにあまりにも気安く批判をぶつけてしまう傾向がある。
乙武氏はその後、謝罪といってもいいコメントを発表しましたが、私は謝罪など必要なかったと思う。
言い足りなかった点を補足するという体裁ですが、別に補足なんかしなくたって、赤ちゃんの誕生をおめでたく思っていたことは文面から読み取れますよ。 そんなの当たり前の当然のことだから書かなかったまでです。
冒頭のコメントについてですが、こんな考えの人がいるとは正直驚きです。
どんな思想を持とうと個人の自由だとは思いますが、「命の重さは一般国民と同等ではないのです」とは!
考え方の「質」が、人種差別や同和差別をする人たちに似通っているように思います。
確かに皇族には、戸籍がないとか養子をとれないとかいう違いはあるけども、憲法第14条「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」の「国民」には皇族が含まれているはずである。
何を根拠に「命の重さが違う」などと言うのだろう?
天皇を一人の人間として尊敬する気持ちは私にだってある。
でもだからといって「命の重さが違う」とは思わない。
そもそも天皇ご自身がそう思っておられないのでは?
だいたい発想がどこか卑屈です。相手によって態度を変える嫌味な人間だと勘ぐりたくもなる。
自分の「命」には天皇や皇族と同等の重みがある。
胸を張って私はそう宣言できる。
とある管理人:
自分の「命」には天皇や皇族と同等の重みがある。
誰にとってでしょうか。
あなたにとって?
ならばyesです。
国家にとって?
ならば人によって答えはyes/noにわかれるかな。
私にとっては?
noですわ。
そして、マスコミにとっては?
そりゃ、noですよ。
コウゲツ:
コメントありがとうございます。
ブログの方を拝見いたしました。
「命の重さ 2 皇室典範と憲法の矛盾」の方で一部引用させていただきました。
またご意見等ありましたら遠慮なく書き込んでくださいね。
上記の<コウゲツのブログ記事>は以下のとおり。
命の重さ 2 皇室典範と憲法の矛盾 先日書いた「乙武洋匡ブログ炎上。 命の重みが違う?」に対していくつかコメントを頂いたんですが、その方のブログ(とある管理人氏のブログ「実験場」のこと。現在は閉鎖されています。)の記事から一部引用して、もう一度考えてみたいと思う。
その方の言を借りますが、
「人類は平等である。それは、法の上での話にすぎない。個人が、ある個人と他の個人とを区別して扱っても何も問題はない。」
という捉え方が確かにあると思う。
道義的に是認されるべきかどうかは別にして、古来から人間はそうであったろうし、今でもそうである。
さっき見てた「功名が辻」でも、茶々(淀君)が男の子(秀頼)を産んでくれたってんで秀吉は大喜び。
産まれるまでは、甥っ子にあたる秀次が豊臣家の跡継ぎと目されていたのに、秀頼が産まれて秀吉の態度はがらりと変わってしまった。その後秀吉と秀次の関係は悪化の一途をたどっていきます。
なんというか今回の新宮ご誕生の経緯と一部重なるところがあり、400年経っても皇室の世界は大して変わってないんだなぁと思いました。
私は、人間に対する差別・区別はあっていいし、またそれが自然だとも思っています。自分の子と他人の子を同程度に愛するべきだなどとは、やはり思いません。
しかし、立場によっては平等・公平を貫くべく努力すべき場合もあると思う。
例えば、学校の先生や保育士は、心の中で何を思っていようと、子供たちを公平に扱うのが職務ともなりましょうし、やや話を大きくするならば、行政、司法及び立法を担う各機関の人間は、感情はどうあれ、できる限り平等・公平であるべきでしょう。
ではテレビ・新聞などのマスコミはどうか?
あくまで民間の機関ですから、ある程度偏向報道気味でもいいんではないかとも思いますが、その影響力の大きさを考えるならば、やはり公平・平等の態度(ことさらに新宮ご誕生の特集を組んだりしないこと)が求められるべきでしょう。
学校の先生や裁判官が公平・公正であるべきという点については多くの人に賛同していただけると思います。
そうだとすれば、命の重さが同じであるべきという大前提に誰もが同意していることになります。
これは人の心に生まれながらに刻まれた良心ともいうべき領域の問題です。
変な言い方かもしれませんが、いわば神の律法なわけです。
神の律法は本来「内心」をも規制するものですから話はややこしくなりますけど、この際「内心」には目をつぶることとします。
少なくとも、内的な思いを行動に表す場合にはこの大前提に従うべきだし、現にみな従っているではありませんか。
皇族についても同様に考えるべきかと思います。
さて、
とはいえ、皇族の問題って、その立法の仕方からして議論がほったらかしなんです。
皇室典範と憲法とで齟齬を生じている場合があります。
皇室典範の第10条にある「立后及び皇族男子の婚姻は、皇室会議の議を経ることを要する。」なんかは、憲法第24条の「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」と理論的に完全に矛盾しています。
本来であれば、憲法第24条に「但し、天皇及び皇族については、この限りでない。」などの例外規定を設けるべきなんでしょうが、そういう記載はどこにもない。
皇室典範は国会で成立した法律でありますから、憲法に矛盾する条項があればそれは無効となるのが必然です。あくまで憲法の枠内に収まっていなくればならないはずです。
どうしてこんな明らかな矛盾が長年放置されているのでしょう。
日本国の象徴であり日本国民統合の象徴でもある天皇に関わる制度がこんな曖昧でよいのしょうか?
皇室を特別視しようが、皇室の伝統を重んじようがそれは個人の自由ですが、「皇室制度」そのものは憲法の理念にのっとった平等・公平なものであるべきだと思います。
個人の感情と社会に置かれる制度とを切り離して考えられないようでは、成熟した国家とは言えないと思います。
長くなりましたのでぼちぼち筆を擱きますが、
結論すれば、
仮にお立場の尊さ、血筋の尊さに違いはあるにしても、命の重さに当然軽重はなく、現にそれを前提に種々の活動が行われており、皇室をその枠外におくべきというのであれば、伝統以上の根拠を示せ、ということです。
伝統なんて「人の命の重さ」に比べれば取るに足らないことだと思います。
同じ犯罪を犯して皇族とそれ以外の国民とで刑罰に差があったらどうでしょう?
一方は死刑、一方は懲役5年とかだったら、あなたは納得できますか?
とある管理人:
私のブログのことですね。
私は法の上(または平等がもとめられる社会制度上)での平等が揺るがされない範囲なら別に問題ないと思います、
なんせそれ以上の平等を追求するつもりがありません。
ま、表明済みの意見に追加する部分はそんなとこですか。
>ことさらに
これは気づきませんでしたが、マスコミはニュース性のある話題(表現が悪いならば、国民が知りたい話題)は逆に発信しなければならんですな。
追加でもう一個
>そうだとすれば、命の重さが同じであるべきという大前提に誰もが同意していることになります。
「人が人を嫌い冷遇するのは、むしろ、権利である」も、大前提ですよ。
二つの前提が折り合いをつける地点は少なくとも、平等を完璧に追求する地点でも、 平等を完璧に無視する地点でもないでしょうな。
コウゲツ:
こんばんわ、コメント有難うございます。
「人が人を嫌い冷遇するのは、むしろ、権利である」 はそのとおりだと思います。(もちろん法律の範囲内でということだと思いますが。)
もちろん優遇する権利だってあります。
ただ、命に軽重の差をつけることと、優遇又は冷遇することには大きな違いがあると思います。
乙武氏は、今回の新宮ご誕生に関しては、前者が当てはまると言いたかったのではないでしょうか?
「とある管理者」さまの言われる二つの大前提の存在には同意いたしますが、新宮ご誕生に対する世間やマスコミの取り扱いの問題とはいささか論点が異なるんだと思います。
あくまで命の重さに差をつけて良いのか悪いのかという問題です。
自分の子と他人の子が川で同時に溺れて我が子の方は自分でも戻れそうだけど、他人の子の方は確実に助けが必要であるような場合を想定するとやや分かりやすいかと思います。
自分の子だけを助けて、他人の子を後回しにした場合でも「他人の子を後回しにする権利がある」と胸を張って言えるのか?
そういうことなんじゃないかと思います。
私は、たとえ親といえども、子に対して「本当は男の子が良かった」などという言葉や態度をするべきではないと思います。
これは冷遇・優遇の問題とは次元が違う話だと思います。
以上、長文で申し訳ありませんでした。
失礼いたします。
とある管理人:
おはようございます。
私のブログの他の記事のコメントをもしお読みならご存知だと思いますが、
平日は議論しないことにしていますので、
また休日にでもコメントします。
ただ、ざっと読んで思ったこと(まあ反「論」でもあります)を一つ書いておきます。
その例は「平等に接する義務」と「優遇する権利」が対立している例ではなく、
「おぼれて死にそうな人は助けなければならないという倫理」と「優遇する権利」が対立している例ではないかと思います。
まあ例を中心に議論すると話がずれるときが多いんで、今度は本論へコメントいたします。
それでは。
後日のとある管理人氏のコメント
それでは、追加してコメントします。
>あくまで命の重さに差をつけて良いのか悪いのかという問題です。
今回、乙武さんが問題にしたのは生命が誕生した場合の喜びについてとなりますね。
ある生命が誕生したときの喜びに差をつける行為が行われていることは、
私のブログで例示した通りです。
全ての生命の誕生を平等に扱うことは相当な精神修養を積まないと不可能であり、
それを強要することはむしろ個人が価値判断を自由に行う権利に著しく反するのではないでしょうか。
>私は、たとえ親といえども、
子に対して「本当は男の子が良かった」などという言葉や態度をするべきではないと思います。
これはそうですね。
しかし平等の問題というよりは、配慮の問題でしょう。
または親という立場上、子に対して要求される義務となりましょうか。
これは「親といえども」というよりは「親だからこそ」要求されることでしょう。
職務上求められている義務に似てるんじゃないないでしょうか。
コウゲツ:
再度お越しいただき、とても嬉しく思っています。
前提部分を確認しますが、法律の規定、あるいは裁判所の判断において「よし」とされているものについては、強要することは固よりできません。
あくまでそのことを承知の上での議論です。
乙武氏然り。私も然りです。
こういった問題は法律による規制にそぐわないですし、憲法に定める思想・良心の自由を侵すことにもなります。
つい言葉自体は「~すべきだ」などと強くなってしまいますが、これは自らの主張への思い入れを表しているにすぎないことを何卒ご理解下さい。
もちろん強要はできないけれど、人間を、とくに子供たちを導くべき道徳的規範はどうあるべきかというような議論を乙武氏や私が展開している、という風に捉えていただければ幸いです。
性別というのは、これは生まれてきた子供にとってはどうしようもないことです。
いかなる努力をもってしても自らの性別を変えることはできません。
貧乏だとか肥満体質だとか、そういうことは努力の余地がありますから優遇・冷遇もある程度許容されてもいいと思いますが、性別だけはどうしようもありません。
そのことの重みをもっと感じてほしいという「お願い」を乙武氏や私はしたまでです。
スーパーのレジで店員さんにため口をきく小学生に対して、私は法律的に何かを強要する権利はないでしょう。
でも一言何か注意したくはなります。
別に注意したからといって私が罪に問われることはないと思いますが、最近の風潮を考慮するとやはり少し思いとどまってしまいそうです。
近所のカミナリ親父の存在の是非が問われているような気がしないでもないです。
何か挑戦的な物言いになってしまったかもしれませんが、貴見をとても有難く思っております。
私もまだまだ未熟者です。
気が向きましたら、忌憚のないご意見を再度頂戴したく思います。
では、これにて失礼いたします。
とある管理人:
「平等」「権利」。
共に法律に用いられている言葉であると同時に、道徳的規範の上でも用いられる概念です。
私の「権利」も、道徳的規範について述べたものとなります。
平等や権利を尊重する意識は、管理人さんの言うとおり「生まれながらに刻まれた」ものになるでしょう。
しかし、それだけでは平等や権利の尊重は道徳的規範にならなかったでしょう。
自らの平等や権利を求める意識もまた、「生まれながらに刻まれた」ものであったが故に平等や権利についての要求がうまれ、平等や権利が規範になった。
全ての生命の誕生を平等に扱うことは相当な精神修養を積まないと不可能。
言い換えれば、生命の誕生を平等に扱かわない態度は、人類に深く刻まれたものになります。
それは自らの生命の誕生を他の生命の誕生と同等に扱って欲しいという思いよりもはるかにはるかに深く刻まれものです。
故に、生命の誕生時における喜びにおいては平等についての要求を認めるのではなく、不平等な扱いを行いたいという要求の方を権利として認めるべきではないか。道徳の上で。
上記、私の意見です。
理想の人類を夢想するのは結構です。
私もときどき夢想します。
しかし、その理想に合わない態度をとった現在の国民に疑問を投げてしまった乙武さん。
批判されて当然です。
道徳は今の人類が実際どういう性格のものなのかを無視して作ってよいものではありません。
理想的な人物像とは何かと、世の中で適用されるべき道徳はなんであるべきかは異なります。
子供ならば両者の区別はつかないかもしれません。
子供に向かって教育しているときならば、両者を混同しているかのごとく語るのも方法でしょう。
しかし大人に対して意見を発信しようとするならば、そのような方法は無用です。
理想とはかけ離れた欲求を数多くもつ人類。
そのうち法的に認めらた権利を全て道徳上認めよとは思いません。
しかしながら理想的でない欲求を数多く持つ人類に、理想的な態度を全て道徳の上で要求するのは、かえって非人道的であると思います。
それでは。
※私の言い方がきついものになってしまっていること、自覚しております。
長文で意見を発信するとどうしてもこうなってしまいます。
敵意があるわけではないことをご理解頂けると幸いです。
コウゲツ:
早速のコメント痛み入ります。
とある管理人さんの言わんとしていたのは、あくまで共通の認識と持つべき「道徳的規範」はどうあるべきか、ということだったんですね。少し誤解しておりました。
「理想的でない欲求を数多く持つ人類に、理想的な態度を全て道徳の上で要求するのは、かえって非人道的である」点については、おっしゃるとおりかと思います。
たとえば「集団で特定の人を無視してはならない」などという道徳的規範はあるべきでないということですよね。
理想あるいは信念としてはあってもよいけれど、道徳的規範として共有するには、やや「高すぎる」ということになるかと思います。
乙武氏の話に戻りますが、もし彼が「現時点での一般的な道徳的規範」がどうであるのかを主張していたに過ぎないのであれば、ブログ炎上もやむなしといったところですが、
彼が現状を的確に見据えた上で「今後あるべき道徳的規範」についての提言として議論を展開していたのだとしたら、ブログ炎上は憂うべきことのように思います。
「道徳的規範」も時代とともに変わるものですし、またかわっていくべきでしょうし、現に男女差別問題なんかは「男女雇用機会均等法」という形で法制化までされています。
命の重さに軽重をつけることも、この時代の人間にとっては許された権利であっても、100年後には「侮辱罪」の構成要件になっているやもしれません。
それだけ流動的なものだと思います。
「性悪説的な」世間の声に対して、乙武氏はいわば「性善説的」な見地から新たな道徳的規範を提唱したにすぎないということです。
ただ「非難」がまじってしまったのが乙武氏のまずい点だったかと思います。やはりバッシングも仕方ないところかもしれません。
以上、さしあたって思うところを述べてみました。
とても勉強になりましたので、一連のコメントを記事の形でいずれ再掲したいと思いますが、いかがでしょうか?
とある管理人:
倫理についての命題が主張する内容には、以下の二つの形式があると思ってます。
①やってはならないこと/やるべきこと
②やっても構わないが、やらない方が立派なこと/やらなくても構わないが、やった方が立派なこと
「道徳的規範」は(多分)お互い、①の意味で使ってきましたね。
生命の平等については、②の形での共有はされていいと思います。
というより、②の形での共有を拒む考えははっきりと間違っていると思います。
しかし①の形での共有を求めたとしたら、今度はそちらが間違っていると思います。
ただ、管理人さんの言うとおりこれは現時点の人類or日本人を前提にした考えでして、時代が変われば変わるもんだと思います。
「高すぎる」が故に②であったものがいずれ、人類が理想に近づくにつれ、①になることもあるでしょう。
乙武さんのコメントの真意については想像の域を出ないのであまり強く自分の見解を言うつもりはないのですが、私の感想を述べておきます。
一個目の記事、謝罪をする前の方の記事から私は乙武さんが不満を持っている印象を受けました。
そのために、彼は平等の考えを即時に①の形で我々が共有するように求めているように感じました。
もしそうでないならば、二つ目の記事では①の形での共有を拒む立場を非難するつもりがないことが記されていたのではないでしょうか。
乙武さんは二つ目の記事で謝罪してますが、
親王殿下の誕生を、内親王殿下の誕生や他の人々の誕生より喜ぶ価値観への譲歩は一切していません。
そして生命は平等であるとの意見を繰り返しています。
>とても勉強になりましたので、一連のコメントを記事の形でいずれ再掲したいと思いますが、いかがでしょうか?
それは是非お願いしたいです。
今回の議論で私も今までになかった多くの視点を得ることができました。
再掲して頂けると更に参考になるかと思います。
コウゲツ:
再掲の件、快諾していただき嬉しいです。
最近あったことですが、交際している女性の小学3年生の次女が友達と2人でとあるショッピングセンターのゲームセンターに行ったらしんですが、それを彼女に嘘をついてごまかしていたとのこと。
嘘はともかく、小学3年生の女の子が友達とショッピングセンター(家から歩いて20分程度の所)のゲームコーナーに行くことを咎めるべきなのか否か、少し考え込んでしまいました。
交際している彼女は、どちらかといえば良くないことだと捉えています。
私が子供だった頃の道徳的規範によれば、叱られても仕方ないのですが、今の子供といえば、高価なゲーム機やソフトを次々と買い与えてもらうことも珍しくなく、ケータイやパソコンを駆使する小学生もいたりします。出会い系サイトにアクセスする小学生がいるほどです。
25年前の道徳観念を押し付けるのはおかしいとは思いつつも、やはり小3の女の子が友達同士でゲーセンに行くことがいいとは思えません。
ジェネレーションギャップということになるのかもしれませんが、やはり小3らしい遊びをしてほしく思います。
でもその「小3らしい遊び」自体がかなり様変わりしているのも事実。
昔と違って魅力的なゲームがたくさんあります。
私はそのゲーム機を開発した世代に属しますから、単純に彼女らを責めるのは気が引けます。
このことに関して道徳的規範は成り立ちえましょうか?
それとも、それぞれの親の教育方針に委ねる他ないのでしょうか?
もしよろしければ、率直なご意見を賜りたく思います。
何かとご多忙なこととは思います。
気が向いた時で結構ですので、コメントお願い申し上げます。
とある管理人:
論点は2つでしょうか。
①ゲームセンターに行くことの是非
②他人の子供を教育することの是非
②についてはよくわからないんですよね。
親が子供を教育する権利の根拠をどこから持ってくればいいのか、考えても答えがでませんでした。
かといって子供に完全な自由を認めるという結論は受け入れがたいので、私はこの問題は保留してます。
だから他人の子供を教育するケースについてもよくわかりません。
①について。
私はごく当たり前に小さい頃からゲームセンターで遊んでいたので、ゲームセンターでの遊びを嫌う理由が実感とし理解できないのですよ。
子供がいないというのもあるかもしれませんが。
少なくとも規範として成り立たせるためには、ゲームセンターの遊びと他の遊びとの相違が説明できないと困難ではないでしょうか。
うまく説明できなくても「社会的な合意」というものでもあれば倫理として認める余地もあるでしょうが、あるんでしょうか?
少なくとも私の周りではそのような抵抗はないような気がします。
コウゲツ:
わざわざコメント有難うございます。
②については特に意識していなかったんですが、昨今問題にされている論点ではありますよね。親が法的に有するとされる親権や監護権とも絡んできますが、なかなか難しい問題ですが、子供を注意する権利を親が排他的に有しているとはやはり思えません。道徳的規範と言える限りは、どんどん注意すべきだと思います。近所のオヤジが子供にゲンコツをくれてもいいとさえ思います。許された正当な権利として。
①ですが、ゲーセンが子供に悪影響を与えるという科学的根拠がない限りは、やはりゲーセン通いを注意することは難しいと感じます。
ご存知かどうか分かりませんが「ラブ&べリー」や「ムシキング」などのカード収集系のゲームについては世間の親はわりと寛容です。不良のにおいも微塵もしません。
それを許容しておいて他のゲームを叱るのは矛盾もいいところです。
でもなにかしらの「不自然さ」も感じます。やはり縄跳び・あや取り的なことにいそしんでほしく思います。それは子供が健全に成長することを願うが故に生じる感情でしょう。それを一概に否定はできない。テニス中毒になることを危惧する親は少ないでしょうが、ゲーム中毒になることを危惧する親は多いと思われます。これは人工的な物に慣れすぎることを心配する本能的な感情なのかもしれません。
それは道徳的規範をはるかに凌駕するひとつの力なのでしょう。
道徳的規範として成り立ち得るかを理屈っぽく論じればゲームを否定するのは難しいいです。でも人の親としての本能が否という。
私は人間の理性よりは「本能」を信ずるべきだと思う。
そしてそれは本来ならば道徳的規範であるべきはずのもの。
道徳的規範であるべきはずのものが道徳的規範になり得ない。
こんなことが増えていくんでしょうか。
結局、結論らしい結論は導けませんでした。なんとも難しいです。
少し酔っ払っているんで、文章が適当なことには目をつぶってくださいませ。
コメントありがとうございました。
とある管理人:
①について。
管理人さんのコメントの言葉を借りれば「本能」。記事の言葉を借りれば「刻まれた」もの。汚い言葉を使えば「欲」。もう少しましな言葉を使えば「望み」。
表現はなんでもいいですが、とりあえずそういったものを「本能」と呼びましょう。
法や社会制度などの日本国の枠組みというものは、日本国民の本能を元に設計されるべきだと思ってます。そして規範とは、国家(またはある共同体)の枠組みのうちの一つだと捉えてます。
前のコメントで規範は時代が変われば変わるという点で一致しました。
この「変わる」対象を、私は規範意識に限定していません。
むしろ本能の変化を重視します。
日本国民の本能が変われば、それにあわせて社会で共有されるべき規範もかわっていくべきだ、と。
もしあるものを駄目と思う国民が多いならば、根拠なく「駄目なものは駄目だ」としていいと思います。
但し注意を促したい点が2点あります。
「駄目なものは駄目」が通用するのは、それが絶対の正しさというようなものを備えているからでなく、そういう時代だからということになります。そのため時代が変わりそれを駄目と思うものが少数になったなら、変化を受け入れなければなりません。
もう一点は、人々の平等を求める意識は強烈だということです。管理人さんが記事で指摘していますね。あることをするのはいいのに、似たような自分のしたいあることを駄目だとされることは、激しく人の本能と対立します。人々には規範に一貫性や無矛盾性を求める本能があります。あることを駄目だと思う本能は、この強烈な本能と調整されなければなりません。
その調整のために規範を語るための数々の論理(理屈)がうまれ、平等や権利といった一定の「原則」が謳われることになったのでしょう。「原則」というものは、何かを「理屈っぽく」語るときに必要になるものです。
②について。
権利を尊重し、制度の上で平等に人々を扱うことは規範の中で大原則の部類に入るでしょう。
そのため相手が子供であっても、権利を制限し、大人と不公平に扱うことを当然のものとするためにはその根拠がなければならないと思います。
子供は、子供だからという理由で権利が制限されることに抵抗します。それを特に理由もなく無視してしまうことは、権利の相違はあっても「基本的に平等」である同じ共同体の一員に対してとるべき態度ではないと思います。
コウゲツ:
これまで頂いたコメントを、私の記事やコメントも含めてひとつのページ
(このページのことです。)にさせていただきました。10月3日の記事からそのページにJUMPできるようになっています。
今私が思うのは、物事の善悪を決定付けるものが3種類あるのではないかということです。
それは、我々が共有できる、あるいは共有すべき道徳的規範。そして本能・良心。さらにそれとはまた別の絶対的・根源的・固定的な、時空を超えた規範。
例えば旧約聖書の十戒にも定められている「偽証をしてはならない」や「姦淫(今で言う不倫でしょうか?)をしてはならない」や「盗んではならない」などは、移り変わる可能性のある道徳的規範や本能ではなく、我々の根っこの部分に絶対的なものとして植えつけられたもののような気がしてならないのです。
言い方を変えれば、道徳的規範や本能は人間に対する誤った認識の下に確立された一種の虚妄に過ぎない可能性は残るということです。
妥当に見える道徳的規範も、前提となる人間あるいは事物に対する認識が誤っていれば信用に値しないということです。
正しく人間を認識するということは、すなわち仏教で言う「悟り」のようなものかもしれません。
前述の絶対的・根源的・固定的な、時空を超えた規範の有無を論じるには、前提としての我々の世界認識が正しくなくてはなりません。
その世界認識の正誤が分からない限り、乙武の主張に否と唱えることはできない。
これが今の私の考えです。
酔っ払ってるので、文章が理路整然としていないかと思いますが、とある管理人さんにはきっと言いたいことを理解してもらえるものと期待します。
もしまた反論等ありましたら、遠慮なくよろしくお願いいたします。
もし万一、またコメントを書いてくださるということでしたら、こちらではなく最新の記事のほうへコメントよろしくお願いします。
とある管理人:
では、こちらにコメントします。
管理人さんが果たして道徳的規範について何か「真理」というようなものを思い描いているのか、相対主義的な立場なのか、よくわかりませんでした。
私は言わなくてもわかるかもしれませんが、後者です。
根拠はありません。
興味あるテーマですが、あまり考えません。
なぜなら、それに対して答えを出さなくても、ある共同体内部で何を道徳的規範として通用させるべきかは決定できるからです。
それは、その共同体において何を正しいとみなすか決定する権利を全ての構成員に平等に認める限りにおいて、多数の支持を得た規範であるべきです。
それはひょっとしたら間違っているかもしれません。
しかし、政治において間違っているかもしれない結論を多数が支持したならば正しいものとみなして政治を進めなければならないのと同様に、
規範も、間違っているかもしれないものでも多数が支持したならば正しいとみなさなければならないと考えています。
とはいっても、私は世間の多数の支持する価値観に対する攻撃を加えることもあります。
だから世間がそれを支持するというそれだけで私は自分の従う道徳的規範を決めるわけではないですね、そこに一定の論理は求めます。
(この二つの立場は矛盾すると思われるかもしれませんね。
今のところ私は矛盾はないと思ってます。
というか、矛盾を克服するための言い訳を一応用意はしている、という感じです。
よって自信はありません。)
さて、この立場の下で、時空を超えた規範というものは成り立つのでしょうか?
それは、人間が根源的・固定的な本能を持っているかについて、可能であれば哲学的アプローチよりも自然科学的アプローチで考えていくべきテーマでしょうね。
直観的にはあると思います。
例えば殺されたくないという感情は、一部の人間は克服してるようですが、基本的に変わらないと思います。
ただ、ここで多分管理人さんと立場が一部異なるだろうと思う点があります。
人間の本能が何であるかを根拠に道徳的規範が何であるべきかを論じる私の立場においても、人間の本能について誤解していては正しい結論がでないことは管理人さんのおっしゃる通りでしょう。
しかし、管理人さんは根源的・固定的な本能は、移り変わる本能より重視されるべきだと思っているように見受けられますが、誤解でしょうか?
これは私の立場とは異なります。
今の人類が抱く望み(「本能」という言葉だとしっくりこないため「望み」に変えます)は、それが強い望みであるならば、例えそれが100年後にはなくなってしまう望みであれ、1000年後まで人類が抱くだろうがしかし弱いものにすぎない望みより、優先されるべきだと思います。
--------
話が掘り下げられ、それに対し長文を書くにあたり、わかりやすい文章を書くことができませんでした。
自分でも悪文だと思う箇所もあります。
わかりにくい箇所がありましたら別の書き方で再説明しようと思いますので、指摘下さい。
コウゲツ:
「物事の善悪は変わるか変わらぬか…?」
私の10月3日の記事に対する「とある管理人」氏のコメントへの返答に代えて、ここで道徳について論じたい。
テーマになっているのは、大雑把に言えば、時代の変遷につれて変わっていくことのない絶対的・固定的な善悪の規範が存在するのか、ということです。
まず意見がほぼ一致している部分を確認したい。
道徳的規範が形成されるにあたっての型枠でもあり材料でもあるところの人間の良心感情や心理的性向(本能という言葉を多用してきましたが、やや曖昧な表現ですので今後は使わないことにします。単に本性といってもいいかもしれません。)が流動的なものであるという点。
そして、仮にある時代の道徳観念が後の世において「いびつだった」と評価されようと、その時代の多くの人々が異存なく共有していた限りにおいては、一定程度までは是認されるべきだという点です。(人身御供とか食人とかの風習は、やはり限度を超えるでしょう。)
「とある管理人」氏と意見がやや異なるのは、道徳的規範がまったくの「根無し草」なのかどうかという点だと思います。(言い方は悪いかもしれませんが他意はありません。)
この場合「根」は、すべての時代のすべての人間に対して適用される、善悪を分かつ絶対的・固定的な基準のことを差しています。
哲学者達は何を言ってるかといえば、
たとえば「道徳の系譜」を著した哲学者フリードリヒ・ニーチェは、同書の中で道徳、特にキリスト教的禁欲主義の形成過程について論じ、
貴族道徳に対峙するところのキリスト教的禁欲主義の淵源を庶民階級の怨恨感情(ルサンチマン)に基づくものだと考え、また、ニーチェの「人間は欲しないよりは、まだしも無を欲するものである。」という言葉からもわかるとおり、その真の目的を「無に他ならぬ生」からの逃避であると喝破した。
これはこれで深い洞察ではあるかと思うけれど、根源的な道徳敵規範の有無を問うている訳ではなく、どちらかといえば根源的な道徳的規範などはないとの前提で論を進めているようにも思えます。
ただ、思ったのは、根源的な道徳的規範の有無の問題は「人間存在の価値の有無」の問題と直結するのではないか、ということです。
人間の生が無意味なものであれば、半ば必然的に根源的な道徳的規範などはないという結論に至るでしょう。(絶対そうとは言えませんが。)
(※) この場合の「無意味」は、般若心経や中観思想にいう「空」や「空性」を指すのではなく、存在の理由も目的も義務もない単なる虚無という意味で使っています。何が違うのかという点についてはここでは深入りしません。
さて、人間の生が無意味であるか否か、すなわち46億年に亘る地球の歴史において偶発的に発生した生命体の進化の途上における一態様であって、たまたま存在したに過ぎない存在なのか否か、
その科学的な証明などできるはずもなく、これは信仰に部類に属する問題である。
結論付ければ、
神、あるいは神に類する絶対的一者を信じる者にとっては絶対的な善悪は確かに存在するのだろうし、タオイズムや禅(ある意味で仏教も)などを行ずる者にとっては絶対的な善悪は存在しない、ということになろうか。
後者のタオイズムとは老荘思想と同義と考えてよいと思います。
その老子の言葉として「善と悪と相去ること何若ぞ。人の畏るる所、畏れざるべからずも、荒として其れ未だ央きざる哉。(道教 第20章)」というのがありますが、その意味は、「善と悪とにどれほど違いがあろうか。世の人のはばかることは、やはりはばからないわけにはいかないが、そのようなことを詮索するのは広漠としてきりがないことだ。」となります。
「とある管理人」氏の見解はこの後者にやや近いのかなあと思います。
私はといえば、なお前者の見解を捨て切れませんが、後者も間違いではないような気がします。
煙に巻くような言い方かもしれませんが、
絶対的・根源的な道徳的規範が存在するのか否かという問いの答えもまた、絶対的なものではないのかもしれません。
Aさんにとっては前者が正しく、Bさんにとっては後者が正しい、というようなことがあるのかもしれません。
物理学者ヒュー・エヴァレットが半世紀ほど前に提唱した多次元世界解釈(多世界解釈、エヴァレット解釈とも言います。)の考え方にやや似ているかもしれません。
ある事実について正しい世界と正しくない世界が平行して、かつ相交わることなく存在するという見方です。
煙に巻いてしまったでしょうか?
はっきり言いまして、理性というか悟性で結論が出る問題ではないように感じます。
でも面白いテーマではありますし、今後も機会があればまた考えてみたいと思います。
私としては、語りたいことは語ったような気がしますので、いったん意見交換はお休みににしようかと思っています。
今回の記事についてのご感想はぜひ承りたく思いますが、それをもって「とある管理人」さん側の言わば最終弁論にしていただこうかなと考えています。(別に判決でも一向に構いません。)
数々の貴重なご意見、改めてお礼申し上げます。
ありがとうございました。
とある管理人:
「最終弁論」とありますが、この記事のどの論点、または意見についてコメントした方がよいのでしょうか?
絶対的善悪が存在するかどうかについての私の見解は前のコメントの最初の段落で述べた通りとなります。
また、この論点についての興味もそこに述べた程度となり、引用されている哲学者の意見について検討するつもりもなく(それはかなり困難な作業でしょう)、私の方からは特に追加してコメントしようと思う内容はないのですが。
「人間存在の価値の有無」については絶対的善悪と同じ立場
(引用:後者(相対主義)です。根拠はありません。興味あるテーマですが、あまり考えません。)
となります。
私が私の人生のために私の価値観を設計する上で、あろうがなかろうが影響を及ぼさないからです。
コウゲツ:
すみません、私の書き方が悪かったようです。「最終弁論」などという言葉を使ってしまいましたが、ある特定の争点についてコメントを求めたわけではなくて、ただ何でもいいから何か感想をおっしゃって欲しかっただけなんです…。
そう意味では、この度いただきました率直なコメントは、まさに望んでいたところのものでした。
あらためて感謝いたします。
最後の「あろうがなかろうが影響を及ぼさない」は、主観的な視線で発言されたのかと思いますが、それは私においても同様に影響を及ぼしません。私たちは来し方も行く末も分からぬまま「現に存在する生」を相対的な価値観に基づいてひたすらに生きる他ありません。
ただ、私は絶対的な視線(いわば神の視線)があるのではないかと「信じる」ということです。
そして、とある管理人さんは、そのようには「信じない」ということなのだと思います。
なんにせよ私にはとても有意義なやり取りでありました。
もしまた気が向きましたら、突っ込みでもなんでも入れてくださいね ♪
とある管理人:
そうでしたか。
論理的に云々できないという意味で私の相対主義が「信仰」なのは、おっしゃる通りです。
ただ、私の「信仰」はそんなに強くないですね。
相対主義について理論武装する気が起きない一因もそこにあると思います。
相対主義的にモノを見る人間というのは、相対主義を強く信じるというよりは、
絶対的な視線なる概念をそもそもよく理解できないというケースが大半でしょう。
そしてここからは人によると思いますが、私は相対主義に強いこだわりはありません。
もし何らかの納得しうるような論理を持って「絶対的」なるものの存在を語られれば当然のことですが、
そうでなくても何らかの受け入れられるような概念をもって「絶対的」なるものを語る者がいれば、
私はあっさり絶対的なるものを信じるでしょう。
その上で、個別の価値について果たしてどれが絶対的かについての論理(こっちは論理的でないと困りますね)を戦わせることになるでしょうね。
それが果たしてどういう構造の論理になるのかわかりませんが。
それでは。
どうもありがとうございました。
コウゲツ:
コメントありがとうございました。
あえて言えば、「絶対的な道徳的規範がある」という私の信仰もさほど強いものではありません。
ですがその信仰の根拠について少し補足したいと思います。
うまく説明できないかもしれませんが、
絶対的な道徳的規範はないと認めてしまうと、つまるところこの世界は偶然の産物であって何らかの目的をもって存在しているわけではないということをも受け入れることになってしまうから、私は認めたくないんだと思います。
宇宙飛行士として地球から飛び立った人たちの多くが神父や牧師になったという話がありますが、やはりこの地球を外から眺めてみて「このように青く美しく輝く星の存在は偶然の産物ではあり得ない」などと直感したんだと思います。私もそれに近いのかもしれません。
この地球の存在もそうですが、人の持つ「優しさ」や「愛情」といった感情が果たして偶然に発生し得るのかという思いもあります。
結局、その辺が私の「信仰」の根拠なんだと思います。
そして、「とある管理人さん」と同じように、私のその信仰もまた変わり得ると思っています。
おそらく、真理は一つしかないのでしょうけれど、どちらが正しいかを証明する手段すら見当もつかないのが現状でしょう。
そんな状況にある以上は、お互いの考えを尊重していく姿勢は欠かせません。
一つの有力な「真理候補」として、とある管理人さんの意見を胸にしまっておこうかと思います…。
やりとりは、とりあえずここまでです。
ご清覧ありがとうございました。
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