コーナーに戻り、マウスピースを外して貰いうがいをする。 「先輩、良い感じでしたね!」 後輩が頬を蒸気させながらナミの健闘を褒める。 「なに言ってんの? まだまだこれからでしょ?」 浮かれる後輩に、ナミは釘を刺す。 (このR、あんまりパンチを打ってこなかった……) ナミは何か嫌な予感がしていた。もしかして様子を見られていたのではないか? そんな疑念が浮かぶ。上手くいったとはいえ、あまりにも歯応えが無さ過ぎる気がする…… 『セコンドアウト』  あまり気にし過ぎて相手に回復されてはバカだ。ナミはマウスピースを銜えると、深く考えるのはやめにした。 カァァァン!  第2Rのゴングが鳴り、両者はリング中央へ歩を進める。そこで、 シュババッ! 先程ダウンを喫した夕貴の方が戦端を開くかのように右ジャブを打ってきた。ナミはそれを避け、ブロッキングし、ヒットを許さない。 夕貴は身体を丸め、ギュン! と加速し一気にナミの懐まで飛び込んできた。 (くッ)  潜り込ませじと、ナミはパンチの雨を浴びせかける。 が、ガッチリとガードを固めた両腕はその尽くを弾き飛ばしながら、ナミの懐に潜り込んできた。 ナミは姿勢を低くした夕貴の顔に打ち下ろしのフックを打つ。 ガッ!  ナミのフックが夕貴の顔に炸裂する。が、同様に夕貴のアッパーもナミのアゴを捕らえていた。 相打ち……誰の目にもそう映った事だろう。しかし、 グラッ…… よろめいたのはナミのみであった。 夕貴はフックの衝撃に踏み止まり、続け様に左ボディブローを放つ。 (くっそぉ!) よろめかされたナミであったが、負けじと再び打ち下ろしの右フックを放つ。 バスンッ!  またも相打ちの両者。しかし、 「ぐほぅッ」 またもフラついたのはナミの方だった。夕貴は自分のパンチ力を信じ、なんと相打ち戦法を敢行したのである。 ナミのディフェンスは巧みで、ただ当てるのは難しいと考えたのだ。無謀とも思える作戦だった。だが…… 結果は夕貴の勝ちだった。 「かはッ」  口の端から唾液を流し、後ろへと後退を余儀なくされるナミ。 そんな中、またも夕貴は間合いを詰めボディへ左の連打を放ってきた。 (これをもらったら……ヤバい!)  ナミはバックステップで夕貴の大砲をかわそうとした。が、 ギシッ…… 背中にロープに当たり、後ろに逃げ場がない事認識させられる結果となってしまった。 そのほんの一瞬の躊躇が致命的な隙となり…… ズドンッ! 再び夕貴の拳を受け、 「げふぅ! は、あ……ッ」 痛みと苦しみのあまりナミの身体はくの字に折れ、口から唾液の滴るマウスピースを覗かせ悶絶した。 ナミとて同年代の女子の中では腹筋に多少の自信はあったのだが、夕貴の強打の前には物の数ではなかった。  ロープ際に追い詰め、しかも相手が悶絶しているとあっては、ここで仕留めない方が異常である。 夕貴は、その強打を余す事無く、躊躇する事も無くフルスイングで振るい、ナミのスタミナを、戦意を、そして意識を削っていく。 ドムッ、ガスッ、バクンッ、バシィンッ!  1Rとはまるで逆の光景がリング上で繰り広げられていた。 夕貴のハードパンチを前に、ナミも懸命にガードを固め致命打だけは貰わないように粘り続けていた。 が、一方的な展開になってきた為か、レフェリーに動きが見えた。 (試合が止められる!? くそッ)  レフェリーの動きを、試合を止める為だと感じたナミは、その時ふと夕貴のラッシュが緩まった事に気づいた。 (打ち疲れ? なら!)  一瞬の隙を掻い潜り、ナミはクリンチでこの状況を脱出しようと試みた。が、 グシャッ! ナミがクリンチしようとしたその時、ナミのアゴに夕貴の右のショートアッパーが叩き込まれていた。 汗と唾液が飛沫となり、ライトに反射して煌く。 アッパーの威力でナミの身体がロープに大きく沈み、反動で跳ね返された。その、目の濁った無防備な顔を夕貴の前に晒して……  放っておいてもそのまま倒れそうなナミに、トドメを刺すべく左を振りかぶった。 カァァァン!  トドメの左ストレートが今まさに決まるその刹那、第2R終了のゴングが鳴った。 鼻先にチョン、と何かが掠った感覚でナミは飛んでいた意識を戻す。目の前には夕貴のグローブがあった。 (た、助かっ……た………) ガクンッ!  寸での所でゴングに救われた事を理解した途端、ナミは力を失い身体を落下させる。 ガシッ! そんなナミの両脇に、夕貴の腕が潜り込み支えとなってキャンバスに落ちるのを防いだ。そして、 「先輩ーー」 駆け寄ってくる後輩にナミの身体を預けると、自身は赤コーナーに身を翻した。  後輩に担がれる形でスツールに腰を下ろしたナミは、アッパーのダメージが抜け切らないのか脚をぷるぷる震わせていた。 1R終了時に戻ってきた時とはまるで違うナミの姿に、青コーナー陣営は言葉が無くなっていく。 先程のアッパーは誘われたのだと悟った時には、もう遅かった。  結局、大した指示を出す事も出来ないまま、第3Rのゴングが鳴り響いた。 ゴングと共に両者がコーナーを出るのは今までと同じだったが、明らかにナミの足取りは重く、とても足を使った戦法が取れる状態ではない。 回復する前に一気に決着をつけるべく、夕貴はインファイトを仕掛けてきた。 右ジャブは何とかブロックするものの、続く左ストレートにガードを弾かれ両腕を吹き飛ばされるナミ。 バシィンッ!  夕貴の左ストレートがナミの顔に突き刺さり、鼻から鮮血が飛び散る。 夕貴の勢いは止まらず、立て続けに左ストレート、右フックと左右の拳をナミに叩き込む。 殴られる度にナミの顔が左右に揺れ、身体をフラつかせていく。 (ま、負けてたまるかぁ!)  根性と精神力でフラつく身体に鞭を入れ、ナミも夕貴にパンチを打ち返した。 グシャッ、バシッ、パグンッ!  お互いのパンチが何度も交差する。 だが、いずれも当たるのは夕貴のパンチのみで、ナミの繰り出すパンチは避けられ、ブロッキングされ、ただの1発もまともに当たりはしなかった。 夕貴の強打を打ち込まれ続け、顔の腫れが酷くなっていく中、 (まだまだぁ……) ナミはあくまで手を出し続けた。 ズシャッ、ビシィッ!  それでも、やはりナミのパンチは虚しく空を切るのみであった。 (ま、まだ………) 根性と精神力だけで無理に酷使し続けた報いか、身体が動く事を拒否し始める。 バシッ、バシィッ!  そんなナミを容赦なく痛めつける夕貴の拳。 (ま、だ……負け………) 打たれ続け、腫れた瞼のせいで歪む視界の向こう、相手の姿が急に消えたように見えた一瞬後…… グワシャアッ!  ナミのアゴに夕貴のフルスイングの左アッパーがめり込んだ。 ブシャアッ……  汗と唾液と血を撒き上げながら、ナミは強制的に天を仰ぐ事となった。 パラパラ、と自身の撒き上げた飛沫を顔に浴び、ダランと腕を下げ棒立ちの状態となると、 ガクンッ………ドサッ! 力なく膝を、次いで上体を、両腕を、キャンバスに投げ出していた。 ヘッドギア越しの顔がキャンバスで一度バウンドし、その弾みで口からはみ出ていたmススピースが零れ落ち、目の前に転がった。 口からは唾液を、 鼻からは血を、 目からは涙を、 それぞれ垂れ流しながら、ナミはリングに横たわっている。その顔に表情はなく、脳震盪を起こしているのか完全に失神しているのが見て取れた。 「う……ス、ストーーップ!」 あまりの出来事に言葉を失っていたレフェリーは、両手を高々と交差させ試合終了の合図を送った。 カンカンカンカンカンカーン!  レフェリーの合図を受け、高らかに試合終了のゴングが会場内に響き渡る。一瞬遅れて、 ワァァァーーッ! 観客がこの劇的な決着に沸き上がり、歓声を上げていく。その直後…… ぴくッ、ぴくッ、とナミの下半身が、そして身体が酷使し続けた反動で小刻みに痙攣し始めた。 「先輩、しっかりして下さい!」  その様子を見たレフェリーは、すぐさまリングドクターを呼び、担架を用意させていくのだった…… 「ん……」  ナミが目を覚ました時、目の前は真っ暗だった。 「先輩!? 気が付いたんですね」 ふと、セコンドをしてくれていた後輩の声が聞こえ、次いで段々と目の前が明るくなっていく。 どうやら頭にタオルを乗せてくれていたようだ。 そういえばひんやりと冷たくて気持ち良かったな、とナミはぼんやりした頭で考えていた。  それはそうと、なんでわたしはこんな所で悠長に寝てるんだろう? 確か……今日は試合があって………試合!? そこでナミは一気に覚醒し、身体を起こそうとする。が、 「あ痛ぅ!」 全身に痛みが走り、起き上がる事が出来ない。 「だ、駄目ですってば先輩!」 後輩に取り押さえられ、ベッドに寝かされる。 「ここは……?」 「医務室です。試合が終わったばっかりなんですから、無理しちゃ駄目ですよ?」  イマイチはっきりしないが、今ので大体の流れは分かった。 (負けたんだ、わたし………) ナミは、残酷な現実を直視させられる事となった。 to be continued……